自分がちっぽけなのか、それとも世界が広すぎるのか。
人生の思い出になる出来事ワースト3に間違いなくランクインする事態が唐突に、本当に唐突に発生したのだから、これを疑わないはずがなかった。
 こんなことがあっていいのだろうか。
 必然か偶然か、それとも単なる神の気まぐれか。
 なんにせよそれは間違いなく少女たちに差し出された現実で、世界はあっという間に変貌を遂げた。真実を述べれば少女たちが次元を越えたこととなっているのだが、その時点ではまだ認めていなかった。
 それを素直に受け止めるのは、神の思い通りに操られている気分で、リーヴァ=ジラバードはどうにも納得できなかった。
 でも、正直に白状すれば、こちらの世界――まだ仮説の段階だが――がどういうものなのかを知りたいというあくなき好奇心が、こころの中で芽生えていたりもした。
 まずは、一歩前へ進むことから始めてみるとする。ちょっとでも座標をずらすだけで、異世界との繊細なひずみに身体を侵される不安があったが、やってみなくては始まらない。
 よし。
 動いた。
 異常なし。
 さて次は――

 天井扇シーリングファンが悠々と旋回し、濃密な空気をかき回す。
 喧騒がやまぬ中、きっと何かの間違いだ、とマリナは思う。
 本名シャル=マリナ。このルアス99番街で図太く居座った流行のためか、誰も姓と名の位置に一瞬戸惑ったりはしない。酒場「Queen B」を経営する女店主であり、ブロンドの髪を腰辺りまで伸ばしているのが特徴。
 厨房に一旦足を運び、そのまま裏口へと歩き、手に持っていたゴミ袋を捨てる。近くにたかっていた野良猫を愛想悪く追い払う。また戻って手を洗う。出来上がった料理を盛り付ける。それを客へと運ぶ。戻るついでに、食べ終えられた食器を両手に重ねて台所に水葬する。木目の鮮やかなカウンターを丁寧に拭く。どの動作にも無駄がなかった。
 足元にあるカゴをつま先でちょっと小突くと、その中に並べられてある酒瓶がひしめいて、からんと良い音を立てた。
 ちらりとそこの席に視線をやる。
 目下、マリナには三つの心配事があった。
 最初の一つは、そこの席にまだまだ若い少女が二人座っていたこと。経営している自分が言うのもなんだが、この店の立地条件は果てしなく悪い。酒と飯と踊りをただ純粋に楽しもうなどという客は一日に二人も来ればいい方で、大半は酒を大量にかっ食らってどんちゃん騒ぎをしようとする荒くれの輩どもだった。だから、そんな柄の悪い連中がそこの純情そうな少女二人にちょっかいかけていざこざを起こすのは、店側としても望みたくない状況なのである。
 お次の一つは、その少女の注文してきた酒だった。酒場の店主である自分が言うのもなんだが、この酒は危ない。名は「バーニングデス」、産地まできちんと言うとすれば、サラセン限定産熱烈強烈飲用酒「バーニングデス」。今はもうほとんど生産されていない、ある種レアな酒だ。面白半分もしくは怖いもの見たさで一口でも飲もうものなら、お冷を頼みお絞りを頼み仕舞いには氷そのものを口いっぱいほおばらなければならなくなる。それほどに辛い酒であり、舌がちぢれて悶絶すること請け合いだった。そんな酒をあっさりと注文してきたのだから一応警告はして置いたものの、向こうは全く怖がらず、客と店という立場上出さないわけには行かなかった。
 最後の一つは、席の位置。常連の客二人があの席にやってきては酒を飲む飯を食うトラブルを起こす。同じギルメンである自分が言うのもなんだが、あの二人だけは一度スイッチが入ったら中々止められないと思っている。前にも述べたとおり、ここで騒ぎを起こされたら店の損害に繋がる。
 だからこうやって時々注意を払っては、いつでも動けるよう手配していたわけだが――その心配事のうち、一つは綺麗に一掃された。
 バーニングデスを、二人のうち一人の少女が何でもない手つきで飲んでいたのだった。
 マリナは、幾度となくあのバーニングデス一本で柄の悪いチンピラどもをぶちのめしてきた。全戦全勝で、負けたことは一回もない。一週間もすればその酒の恐ろしさも伝播でんぱしたらしく、そうでなくっても常連客の間では「店主を怒らせると危険だ」という暗黙の了解が勝手になされていた。それでも気にせずに酔った勢いで店内で暴れる挑戦者は時々やって来るので、すぐに出撃させられるよう、足元にバーニングデスを並べておくのはいつしか習慣になっていた。
 もう一度つま先で小突いてみる。
 またも良い音が鳴った。
 今までの習慣に嘘はつけないし、今日だけここに別の酒が置いてあるとも絶対考えられないし、間違った酒を出した訳でもないし、あの修道士の少女がやせ我慢して意地を張っているとも思えない。
 つまり、あの修道士の少女は、本当にバーニングデスを口にしている。遠慮せずにがふがふと飲んでいる。もう一人の聖職者の少女は先に折れたのか、ぐったりとしていた。それでも顔色はまだ比較的良いとここからでも判別できる。ただ「辛くて飲み疲れたからやめた」というような様子だった。確かあの聖職者の少女が修道士の少女を連れ込み、「一番辛いお酒くださーい!」と威勢良く頼んできたはずである。けれど優位は明らかに逆転しており、今のところ聖職者の少女が劣勢、修道士の少女が圧倒的に優勢だった。
 そしてそれは、マリナにとっても、だった。
 あまたの激戦を共にくぐり抜けてきた戦友が、見る見るうちにあの腹に収まっていく。
 別に勝負しているわけではないが、それでもちょっと悔しかった。
 残るは二つの心配事だが、これはもう一つと考えても構わないかもしれない。また、あの少女二人に絡もうとして酒の名を見、潮のように引いていくのも、可能性としては考えられるだろう。
 さてどうしたものか、と考えていた矢先、
「おう、マリナ」
「こんにちはー」
「――あら、いらっしゃい」
 タイミング悪く、おなじみの顔ぶれがスイングドアの向こうからやってきた。苦笑を表情の奥で何とか押し殺し、マリナは商売用の笑顔を作る。

「リーちゃん……このお酒美味しいけどすっごく辛いよぉ……」
 空色の髪をポニーテールにしている聖職者の少女が苦々しく感想を漏らした。テーブルに片腕を敷き、行儀悪くもあごの先を置いている。右手のお冷はすでに空っぽだった。
「エレスが頼んだんでしょうに」
 向かい側に座っている、リーちゃんと呼ばれた桃髪の修道士少女、リーヴァは呆れた口調で言い返す。コップに注がれたバーニングデスをいとも簡単に飲み干していく。向かいの少女がこの酒を元気よく注文したとき、酒場内のざわめきが一瞬落ち着き、黒い紙なら火がつきそうなほどの酔眼がこちらに集まった。その後はすぐに先ほどと変わらぬ騒がしさになり――失笑のような小さな笑い声もあった気がするが――他の客はそれぞれ思い思いに自分のジョッキを掴み、酒を飲むのに専念していた。それほど厄介な酒なのかと少し不安になったが、てんで期待はずれだった。頼んだ手前、突きかえすわけにも行かず、さっさと処分しなければ次に進めない。
 つまり、二人は今、酒場「Queen B」にてそのまま普通に酒をたしなんでいる最中だった。
「もう飲まないんだったら私が全部飲んじゃうよ?」
「うん、そうして……」
 すいませんお水くださーい、とポニーテール少女のエレス――エクレウス=エルガ=アレンクが手を上げて頼む。背中を立たせた拍子で、空色の髪があっちへこっちへとさらさらこぼれていく。
 長い髪しているなあ、というのはリーヴァがいつもエレスに対して抱く感想だった。19年間丹精込めて伸ばしましたというような、すれ違う人の誰もが思わず振り返るほどのとんでもなく長い髪(正確に述べるとおよそひざの裏辺りまで)を勇ましく結い上げてるのがエレスの特筆すべき特徴で、見た目の可憐さは二の次にされてしまう。ただ、このようにダウンしているエレスを見るのは珍しいことだった。いつでもどこでもはた迷惑なぐらい明るさを撒き散らすのが普段のエレスであり、その持ち味をいつもどおり利用してリーヴァをこの酒場に連れ込んできた。自分同様酒に強いのかと思いきや、こんな大したことのない奴で根を上げているのだから、リーヴァはちょっと残念だと思った。また同時に、優越感も芽生えていた。普段はお姉さん気取りをしている最強ポニーテール聖職者エレスに勝る部分があったのだと思うと、リーヴァはこころの中でにやつかずにはいられなかった。
「リーちゃん、辛くないの?」
「確かに辛いことは辛いけど……別にそこまできついとは思わないよ。普通に美味しいし」
 優越感を引っ張り、それでもリーヴァは無表情で飲み続ける。いける口をしているリーヴァにしてみれば、例えそれがどんな物体であれ、酒という範疇はんちゅうに収まっているのなら、辛い甘い熱いぬるい冷たいは、ただの要素にしか過ぎないのである。
 周りの様子も少し気になるが、もう自分たちに興味はなくなったらしい。
「赤色ナルちゃんなら飲めるかなあ」
「駄目駄目、未成年。心配だし早めに飲み終えてここのこと訊いちゃおうよ」
「分かってるよ。でもさ、ほら。間≠チてものがいるじゃん。お水が来たら訊ねてみるから、ね? それまで頑張ってねリーちゃん」
「――自分は飲まないのね」
 とは言うものの、ビンの中はほとんど空になってきていた。後はエレスの水一杯で切り上げて本題に入ろうと思う。せっかく酒場に来たのだからもうちょっと楽しみたい気持ちはあったのだが、胃の中を焼かれたエレスはもう懲りたろうし、外で一人待ってくれている友人が気になってきた。ここには感じの悪そうな客が大勢おり、小粋な外見と店内は結構なギャップだった。別の意味で日当たりの悪そうな所に建ててしまったのが運のつきなのか、それともあの美人店主目的でやってくるのか、まだ結論を出し兼ねないでいる。
「――おい、」
「あ、どう……も……」
 エレスはお冷が来たと思っただろうし、リーヴァもそう思っていた。けれど、声の質は店主とは明らかに違っていて、エレスが声の主の方をぼんやりと見つめていたので、リーヴァも何事かと顔をそちらへと向けた。
 目つきの悪い盗賊と、そうでもない騎士が目の前に立っていた。視界の隅っこでぱらぱらと現れる天井扇シーリングファンよりも、今は照明の光でぎらぎらと眩しく輝いている盗賊のアクセサリーのほうがちょっと気になる。

 また俺たちの席に、というのがロス・A=ドジャーの最初のこころのつぶやきだった。
 でもいつもと違うのは、そこに座っていたのが女二人組みだったということ。両者ともまだまだ若く、酒が似合いそうにない。一人は桃色の髪の修道士、もう一人は信じられないぐらい長い空色の髪の聖職者。見る限りではどちらも知らない面で、まだあどけなさをわずかに残している少女たちだ。おそらく今日ここに来るのが初めてで、ここが自分たちの特等席だと言うのを知らないのだろう。
 けれど、知らないのなら知らないで、「知ってます」と無理矢理言わせるのがドジャーだった。
「あのう、私、お水一杯を頼んだのであって、男性の方二名を頼んだ覚えはないんですけど」
 空色ポニテが先に言ってきた。
「カッ! ここは俺らの特等席だ。嬢ちゃんたちはさっさと帰りな!」
 年頃の女相手だろうと容赦のない常套句じょうとうく。人見知り知らずの本性が垣間見える。
 それを感じ悪く受け止めたのか、桃髪がむっとする。
 わずかにだが、空気がよどんだ。
「――ねえねえ、ドジャーさん」
 一触即発の険悪ムードをものともせず、穏やかな顔つきをしている青髪の騎士――アレックス=オーランドが、ドジャーの肩を揺する。
「んだよアレックス」
「お腹空きました」
「知るか! だったらこいつらどかすの手伝え!」
「女性相手に手を上げるのは本意じゃないです。それにお腹減りすぎて動きたくないですし」
「以前のような威勢はどこへやった!」
 こういうときだけ騎士道精神掲げやがって、とドジャーは思う。
「――エレス、いこ」
 桃髪が何か言いたそうだったが、それを喉もとで押し込んでいるようだった。桃髪がテーブルに手をついて腰を浮かそうとしていたら、エレスと呼ばれた空色ポニテが、
「え、でも凄いよここ。水を頼んだら男の人が来て漫才するんだよ? サービスいいじゃん! ちょっと場違いだけど!」
 桃髪の左腕が折れ、ひじがテーブルの表面にがたりと当たった。
「何をどう考えたらそんな結論が生まれてくるわけ……?」
 ドジャーとアレックスはそんな二人の様を冷めた目で見る。
「……俺ら、漫才のパフォーマンスを見せに来たと思われてるぞ」
「でも、この二人も息ぴったりみたいですね」
 そういう問題か、とアレックスに一喝入れようとしたら、「やっぱりこうなったか」というような顔でマリナがお冷片手に駆けつけてきた。
「何やってるのよあんたたち……」
「カッ、俺の特等席にこいつらがいるからどかそうとしているだけだ」
「私たちが最初に座ったのに……」
 と、これは桃髪で、口を尖らせて納得いかなそうな表情をあらわにしている。
「すいません早くお水くださーい」
 と、これは空色ポニテで、ドジャーの向こうにいるマリナからコップを受け取ろうと腕を伸ばしている。
「ああ、はいどうぞ」
 と、これはマリナで、ドジャーを板ばさみする形でコップを渡そうとしている。
「ドジャーさん、お腹空きましたよ〜……」
 と、これはアレックスで、腹の虫と口をコントロールできないでいる。
「オメェはガキかっ! 馬鹿の一つ覚えみたいに同じこと何べんも言うんじゃねえ!」
 と、これはドジャーで、アレックスに不満をぶつけ返している。実際アレックスは腹の中にガキが住んでいるのかと思うぐらいよく食う。一に食事、二に食事、三四右に同じで、五に食事。食うために生きて食うために死ぬ。ダガーで腹をかっさばいてどういう胃袋をしているのか観察してみたいというのは、ドジャーのちょっとした興味ごとだった。今度レイズでも呼んで二人で調べてみようか。睡眠薬を飯の中に仕込んでおけば簡単に下準備は終わるだろうし。
 最近は仲間との交流が増えてきたためにかなり丸くなっているドジャーもいい加減いらだってきた。老若男女の壁を今一度ぶち破り、この身の程知らずな奴らにここがどういう所かを脳髄に刻ませる必要があるみたいだった。
 マリナはちょっと息をつくと、
「身の程知らずなのはあんたの方かもしれないわよ」
「あぁん?」
 加勢してくれるかと思っていたが、マリナは店の者らしく仲裁的になっていたので、ドジャーは更に態度を悪くしてしまう。
 マリナはあごをしゃくり、桃髪のそばにあるビンを注目させる。ドジャーとアレックスは腑に落ちない表情でもう一度桃髪の手元を見る。
 見覚えのある酒だった。
 鈍く光っている真っ黒のビン、炎の縁取りがされてあるラベル、まがまがしい「DANGER」の六文字、こちらを見てあざ笑っているドクロ、そしてコップの中の透明な液体。
 おそらく自身も気づき、対抗するつもりでいるのだろう。桃髪は今一度、パフォーマンスのようにその液体を飲んでみせた。
 腹の奥底が冷たくなった。
「――バ、バーニング、」
「デス?」
 前半は声を上ずらせたドジャーで、後半は喉を鳴らしたアレックスだった。遠い親戚の愛称を呼ぶような、妙な口ざわりだった。
「です!」
 空色ポニテが元気よく返事する。
 血の気と体温が劇的に下がっていく中、きっと何かの間違いだ、とドジャーは思う。












                 






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