時は金なり、と昔の人はよく言ったものである。
 問題は振り出しに戻り、新たな課題も追加された。
 夕陽が灰色の空を焼き焦がす。血の一滴にも等しい時の一秒を正確に削りこんで、夜の気配を静かに溶け込ませていく。
 時間と言うのは薄情で人のこころを解せぬものなので、眠ることも知らなければ、止まることもない。リーヴァ、ドジャー、エレス、アレックス、シグナル、メッツ、およそこの世界の人間全員にその事実は平等に降り注がれる。
 ミラーをとんずらした猫は姿はおろか尻尾も見せてくれず、六人はまだまだルアス99番街をうろつきまわらなくてはならなかった。
 もし、このまま見つからなかったら。
 もし、誰かの手に渡っていたら。
 もし、破損してしまっていたら。
 新たな刺客がやってくることもありうる。
 失敬したのが猫だと言うことそのものが微妙なのである。
 とにかく、時間が惜しかった。
 最悪ドジャーとも二手に別れて探すことさえリーヴァは考えていた。そうすればドジャーだけ酒場に帰せるし、自分は続行できる。
 さっさと帰りたい、という気持ちも小さくはなかったが、これ以上ドジャーたちに迷惑をかけたくない、という気持ちのほうがよっぽど強かった。もとをたどれば自分たちの問題なのである。
 きっと見つからない、と思うのは、絶対に見つからない、と思うのとさして違わない。本当の恐怖とは、そう思ってしまったことであり、その可能性を視野に入れてしまったことである。思ってしまうと言うことは、くたびれてきた理性が冷静にならなければと判断するのを建前に、思考を悪い方向へと傾かせていることである。
 闘うべき相手が、いつの間にかすりかわっていた。
 戦闘を交えて身体はあたたまってるというのに、酒を飲んだというのに、リーヴァの胃の中は凍えている。その胃を魔の手が徐々に締め上げていっているのが意識できる。更に二手に分かれて探すことを、いつドジャーに提案すべきかをずっと計らっている。アレックスがへろへろになっているのにも関わらず、エレスは事の深刻さすら飲み込めてなさそうなテンションで動き回る。そのアレックスに近い状況の人物がもう一人いる。魔力が枯渇状態に戻ってしまった青色シグナルは、ガタイのいいメッツに支えられているような歩き方をする。
 諦めるわけには行かなかった。たとえ陽が完全に沈みきり、暗黒に縛られることになっても、だった。街灯すらろくに整備されていない街の闇に潜む猫を捜すなど、どう考えても無理な話だったが、リーヴァもエレスもシグナルも諦めるわけには行かなかった。何が何でも見つけ出して元の世界に帰るのだ。
 そんな強い決心の裏にも、やがて覚悟を決めねばならぬ時が刻一刻と迫っていた。




 んなこたあ解決してしまえばこれっぽっちも危惧する必要はなく、関係もなくなり、時の教訓など知ったこっちゃあなくなったリーヴァはのんきにも、うたた寝から目を覚ましたところだった。
 しかし、眠さのあまりに目蓋が開くことを頑なに拒否していた。脳だけが眠気の尻尾を掴んだまま時間を取り戻した。右手には硬い感触があって、これは何だろうと指に力を込めると、自分が干したグラスだと分かった。左手はどこか――と思うと、それはいつの間にか枕にしてあり、血の通いを遮断していた。今顔を上げたら間違いなくしびれる、とぼんやり思った。
 それでも、リーヴァは頭を上げた。まどろみを帯びた半目でテーブルを見つめる。
 あまり長い時間眠った感じはしない。アルコールに潰されたのではなく、夜更かしの眠気に潰された。向かいには先ほどまでの自分同様眠りこけたドジャーの頭があった。まるで女の人のようにほそっこくてウェーブのかかった髪の毛がそこにある。エレスもアレックスもシグナルもメッツも一緒で、みんなを眺めたときにようやっと気づいたのだが、肩に毛布がかけられてあった。マリナが駆けてくれたのだろうかとカウンターに目をやると、そこにも頬杖をついたまま舟をこいでいる当人がいた。
 冷たかった左腕に、針山を握り締めているようなちくちくした痛みが出来上がってくる。
 右手のそばには、ドジャーが飲みたがっていたブドウ酒があった。適当なところに引っ掛けてまず釘を抜き、栓抜きを通し、やっとあけることの出来た酒。酒豪のドジャーが期待するだけあり、中々の味だった。走り回ったお陰で単にそう感じただけなのかもしれないけど。
 酒場は貸しきり状態で、自分たちには誰もいなかった。
 大叫びしたくなるような、痛い静寂。時々その空気を裂くように、メッツの高いびきが聞こえる。
 そんなにも夜が更けたのかなと時計を探るも、まだ午前二時半を少し過ぎた頃だった。実は閉店間際、マリナは潰れた客の首根っこを片っ端から掴み、財布をありがたく頂戴し、入口に放り捨てていたのだが、その頃にはもうリーヴァはとっくに眠り込んでいた。
 頭に異物を敷き詰められるような痛みはまだやってこなかったが、暁が近づくとともにその悪魔は到来するに違いない。
 夢とうつつの境目で、ほんのりと回想する。未だに頭が上手く回ろうとしてくれない。この期に及んで回り続けるのは天井扇と時計の秒針だけだった。
 これは――そう、ドジャーとの約束の件だ。ミラーが見つかったから、条件どおり酒に付き合った。
 まさに灯台下暗しと言うやつで、ミラーを奪った猫は酒場に戻っていた。もしかしたら初めからどこにもいかず、青色シグナルに縄張りを荒らされると思って襲い、闇に戻り、そのままずっとそこにいたのかもしれない。結局最後まで二手に分かれることを言いそびれ、ドジャーに無理だから明日にしろと言われてやっとことさ妥協し、酒場に戻ったときに他の四人とちょうど出くわし、栓抜き以外の収穫は無しかと落胆し、ちょうどシグナルが隠れていた路地から猫と思しき動物の尻尾が出ていたことにはっとし、とっさにエレスが駆け、とっつかまえ、もたげ、全員で、
「いたあ――――――――……と……」
 独り言が口からこぼれた。
 苦笑でその口元が歪む。
 思い出すだけで、疲れが、腹の、そこから、よみがえって、
 ゆっくりと泥沼に沈んでいく思考を、慌てて引っ張り出す。
 思わずへたり込んだことを覚えている。
 今までの、命まで狙われるほどの苦労は何だったのか。マリナの「気まぐれで栓抜き持ってかれちゃたまんないわよ」という言葉が、身にしみて分かる。
 でも。ヤケ酒は飲まなかったような。
 とはいえ。お礼のこともあるし、ドジャーは飲み相手が見つかって実に嬉しそうだったので、ほどほどになるわけにも行かず、とりあえずお酌してもらった分はいただいた。ついでにコーヒーも頼んだら、「どんな組み合わせだよ」とか言われた記憶がある。味も悪くなかった。エレスとアレックスとメッツは和気藹々――というより竜頭竜尾りゅうとうりゅうびの勢いでご飯を食べてたし、シグナルも青色になって、ウエハースとかチョコをコーティングしたプレッツェルとかがおよそ45度の角度で突き刺さったアイスを、普段の性情からは思えないほどの速いペースで頂いていた。自分は自分で、別の意味で45度のウォッカを一気にあおり、ドジャーの目を丸くさせた。その優越感はまだ胸に残っている。他にも75度のレモンハートとか、96度のスピリタスとか――。
 徒労が喉もと過ぎ去って、嫌なことを忘れているのかもしれないが――決して悪い時間ではなかった、と思っている。
 唐突に、どうしようもない寂しさと切なさも覚えた。
 理由は分からないが、おそらく――時が近いからではないか、と考えている。
 長い長い一日だった。
 いや、まだ24時間すらたっていない。
 あれほど時間にぴりぴりとしていた頃が、もう遠い日のことのように思える。
 全く――
 全く、何という密度の濃さか。
 一秒一秒が規律よく進んでいるだなんて、嘘ではないのか。
 確かこっちにやって来たのは正午あたりのはずだ。エレスやシグナルとミラーをいじり、異世界へ飛び、見渡し、酒を飲み、ドジャーたちをびびらせ、いきさつを話し、マリナの逆鱗に触れ、シグナルを連れ込み、ミラー消失を聞き、捜し――
 本当に長い長い一日だった。
 これが俗に言う時差ぼけだろうか。いまいちしっくりとこないが。
 突如思う。
 並行世界ならば、時間は重なっているのか否か。
 時計を見る。
 目が覚めて三分がたっていた。
 あといくらもすれば、こちらの世界の朝日が拝める。
 朝日。
 一瞬、心臓を「きゅ」と締め付けられるかのような冷たさを感じ、喉が詰まった。
 新聞、配達。
 まずい。こうしてはいられない。
 ぼろ雑巾のような身体を名残惜しげに立たせ、まずエレスを起こしにかかる。
 こうなればこの一日を起き続かねば、今一度寝ると確実に脳しょうが発酵されて異常をきたすと思った。自分のアルコール体質など、未だによく分かっていなかったが、起き続けていれば大丈夫だと暗示をかけておくことにする。
 頭痛がするから仕事を休む――なんていう身から出た錆など、プライドが許さなかった。
「――エレス、起きて」
 自身もあくびをしつつ、リーヴァは二つの椅子に身を預けたエレスの肩を揺する。そういえば、エレスの寝顔を見るのはこれが初めての気がする。そもそも寝ることがあるんだ、と思ってしまう。友人のとはいえ、寝顔をじろじろ見るのはあまりよろしくない感じがするので、もうちょっと強く揺さぶってみた。
 エレスはすぐに目蓋を全開し、
「――あ、いっけない、寝ちゃってた」
 そこでエレスも、己にかかっていた毛布に気づく。微醺びくんを帯びた目つきで辺りを見回し、髪の状態を調べる。
「もう帰ろっか。私朝早いし。ほら、シグナルも起こさないと」
「あー、そうだね……。でも、みんなはどうするの?」
 どうしようかな、とリーヴァは指で目を擦る。四人を起こしてわざわざ「帰る」なんて告げるのも、それはそれで駄目な気がする。かといって誰かが起きるのを待って夜を明かすわけには行かない。擦った目を開けると、ふと領収書と羽ペンがそれに留まった。
「ほーら、ナルちゃーん、起きる時間ですよー。夜だけど」とエレスが、店のアイス系統をあらかた制覇した青色シグナルを起こす。その最中にリーヴァは領収書の裏を使って書き置きを残しにかかった。眠さのあまりに字が歪む。そりゃあできることなら堅苦しくもきっちりかっちりと礼を言って、相手が納得いくようなお別れをしたかったが、こんな事態になってしまっては後の祭りだ。
 まあでも、こんな別れ方でもいいんだ、と思う。
 だって、会おうと思えばいつでも会えるのだから。
 それに――







「ドジャーさん、ドジャーさんってば」
「んぁ……やべ、寝ちまってたのか……」
 アレックスに身体を揺すられる。いつもこうだ。アレックスは目覚めたらまずドジャーを起こしにかかり、飯を食いたい飯はまだか飯をよこせとやかましい。いつもこうだ。そうやって貴重な睡眠時間を邪魔するのだ。他人の朝を何だと思っているのか。
 そこで自分の体勢がややおかしいことに気づく。
 けだるそうにドジャーはテーブルからほおを上げる。途端、メッツのいびきが聞こえてきたが、これはもう慣れっこのことなので注意するに値しなかった。
 まだ酔いが幾分か頭に絡み付いている。
 いや、そもそもどうしてQueen Bで――
 いつもよりもグラスが多い。
 思い出す。
 異世界から来たと言い張る奴らと出会い、共に闘い、共に酒を飲んだのだから、これが色濃く残る記憶にならないはずが無かった。
 不思議な少女たちだった。
 淡くって、どこまでも純情で、ちょうど体温のような温かみのある優しさを持っていて、しかし生きることにはタフでしぶとい、あの三人組。
 久しぶりに中身の詰まった一日を味わえた。
 思う。
 全て、夢だったのではないか。
 寝ぼけた思考は、あらぬ仮定すらも生み出してしまう。
 しかし、アレックスはそんな仮定を打ち消すように、
「どえらい事になりました」
 朝ごはんを口にするかと思いきや、何やら穏やかじゃないことを言ってきた。結局行き着くところはご飯な気もするが。
「んだよ……拒食症にでもなっちまったのか?」
「これですこれ」
 アレックスは一枚の紙っきれを差し出す。それは領収書の裏で、黒っぽいミミズの塊が三つ。
 それが、リーヴァ、エレス、シグナルの書き置きだと判別するのには二秒を必要とした。
 上段の几帳面な字がエレス、中段の丸っこくてかわいらしい字がシグナル、そして下段の文字の書き取り練習のようなちょっといびつな字がリーヴァだった。孤児院育ちも楽じゃねえのな、とこころの隅っこで笑った。
『今日は楽しかったです。って言ってもこれ、もう零時を過ぎた時の書き置きなんですけどね。また遊びに来ますね!』
 オメェはもう来るな、と思う。
『私の不届きでご迷惑をおかけいたしました。今度お会いする機会があれば、よろしくお願いします。簡単ではございますが、これで別れの挨拶とさせていただきます』
 んなに堅苦しくなるなよ、と思う。
『猫捜し、どうもありがとう。それに、色々と学べることもあったし。世界がどんなであれ、お互い強く生きようね』
 一丁前に分かったようなこと書き並べやがって、と思う。
 そして、リーヴァの書き置きの下にちょっとした行間があって、
『あっと、それと。お酒とご飯、ご馳走様。美味しかったってマリナに伝えておいてね』
 ごち――?
「ご馳走様、って……」
 ドジャーは恐る恐る領収書の表に目をやる。
 六人も飲み食いする奴がいれば、瞠目どうもくするほどのどえらい金額になるのも無理はなかった。しかも、どうやら宿代らしい、五桁の数字まで追加されてある。金額の合計欄のところに、なにやら蜂がぷんすか怒っているような、マリナ直筆のイラストが描かれてある。今回ばかりはツケはきかん、ということを記号的に語っていた。
 睡魔とは違う原因での意識の遠のきを感じる中、きっと何かの間違いだ、とドジャーは思う。

桃李とS・O・A・D 〜未踏間隙スパイラル〜 ―― 完 ――





                 






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